| 今日の一言 | ||
| 2009.12.3
「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか」はゴーギャンの絵画の題名である
この言葉自体はある神学校における教理問答であったと言われている ○ 誰もが若い頃に行き当たり 誰もが封印したまま暮らしてきた 永遠の謎 ○ ゴーギャンはなぜ「われわれは」と問いかけたのか 「われわれ」とすれば範囲が広がり過ぎて 誰を想像してよいのか 絞りきれない 作者と見学者2人か 同世代の人たちか 人類全体か 生きとし生けるものか 「わたしは」という問いこそが避けることのできない重要問題であるのに これよりもはるかに難しい「われわれは」に広げることの意味は ○ 問うことには意味があるが 答には意味がない 答えられなくても答えようとすることには意味がある それは心的活動だから ○ もし画題が「わたしは」だったら 見学者の心情を巻き込む力が弱い 「われわれは」とすれば対象の範囲が曖昧になるかわりに 働きかけが強くなる ○ 「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか」と 過去 現在 未来 が並べられているが どれが最も重要なのか ○ アフリカ大陸の乾燥が森林の減少をもたらし 草原を歩いて 餌をさがす必要があった たまたま 毛が薄かった者は 暑さに耐えやすく たまたま 皮膚の色が黒かったものは 紫外線から身を守りやすかったので 生き残った エジプトから中東を北上した者は 紫外線が弱すぎて 骨を形成することができないため 皮膚の色が抜け落ちた者が 生き残りやすかった 中間色の者は アリューシャン海峡を渡った後 再び赤道を渡ることもできた・・・ 人類の叙事詩だけでなく 生きとし生ける者の叙事詩も スーパーブリュームの活動 大陸の移動などによる 環境の変化によって一定の「説明」を行うことはできる (以上は NHKの特別番組の内容を適当に要約したもの) 過去の出来事についての外形的な説明を どんなに詳しく聞かせてもらっても 彼の問いかけの答にはならない 客観的関係には自分との関わりがついていない |
○ 誰でも胸に手を当ててよく考えてみれば 「どこへいくのか」という問いかけからは逃れられない 最大の関心は 「わたしはどうなるのか」にあるに違いない ところが この関心事には 何に関心があるのかを絞ることができない困難さがある エジプトのファラオは 3000年も4000年も行きたいと 願ったといわれている では5000年後 6000年後はどうでもよいと考えていたのだろうか 本音として何年後に生きていたかったのか 未来永劫というものは考えることができないので 具体的に答えようとすると 絞ることができない 数百万年のスパンでいえば 太陽の水素が燃え尽きて肥大化し 地球を飲み込むこんでしまうことは ほぼ確実視されている いや もっと身近なところで 子孫の道楽で 財産を取り崩して 墓場が洪水にさらされることはどうなのか ○ 大海を回遊する鰯の群れは どこから来て どこに行くのか 考えている暇はない 今どこにいるのかですら 分からないし 興味もない 客観的な地理上の位置は 生きていく上で 重要なことではない リーダーが群れを仕切っているわけでもないし 誰かが行き先を知っている訳でもない かりに 群れの行く手に 破滅が待っていたとしても その群れを離れることの方が命を落とす危険が大きい 群れに中にいて 他の個体と適当な距離を保つことだけが 生存のために必要なことで 群れをはずれたら 外敵の標的となり 食物にもありつけず 子孫を残すこともできなくなる 群れから離れない性質を持った者だけが生き残ったのに違いない このようにして生き残った品種が 群れから離れることを恐れるのは ご先祖様が身体に仕込んでくれたお守のささやきなのだ ○ 「われわれ」は 鰯たちのしたたかな生き残り戦略を 乗り越えることができたのか |
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